明けの明星・宵の明星として知られる天体金星は、ギリシャ神話の美の女神、アフロディーテ(英語ではヴィーナス)を象徴する天体です。占星術においては、特に恋愛とも関連づけて占術に用いられる天体ですが、今回は、占星学の観点から掘り下げた金星について考察をしてみたいと思います。
金星の光と影
イタリアのフィレンツェ生まれの画家、ボッティチェッリの描いた「ヴィーナス誕生」は世界的にもよく知られる絵画の一つです。ボッティチェッリは当時、フィレンツェにおいて絶大な権力を持っていたメディチ家の保護を受け、これらの絵画を世に残したとされています。

ホタテ貝の上に立っている裸の女性が美の女神アフロディーテ(=ヴィーナス)。左側には風の神ゼフィロスがおり、風に乗って波に運ばれて岸にたどり着いたヴィーナスを、春を象徴する従者の女性が迎え入れるというシーンが描かれています。
この女神が象徴するように、金星はまさに美と関連する天体です。何を持って美しいと判断するかはしばしば主観に委ねられがちですが、金星の象徴する美というものは、本来は誰が見ても美しいと感じる美であり、その美しさは黄金比に例えられます。
余談ですが、この「ヴィーナス誕生」のように、時代を超えて愛される絵画には、実は綿密にこの黄金比が組み込まれているそうです。またその上で、黄金比から少しだけバランスを崩した箇所を入れることにより、完成すると言われています。このヴィーナス誕生の絵にもまさにそのような要素が組み込まれており、よく見るとアフロディーテは少しだけ身体が傾きそうなバランスで立っており、その立ち位置も中心から少し右側にずれているのがわかります。
このように、完璧さに少しだけ影の要素を持たせることで人間の感性をくすぐる絵画の手法には、まさに金星の持つ美の世界観が現れているように思います。
アフロディーテに見る美の側面と醜悪さ
実際にギリシャ神話で描かれているこの女神は絶世の美女でもありますが、心が清らかで貞淑でというキャラクターとはおよそ対局にあります。亭主がいながら火星を象徴する軍神のアレスと浮気をして子供を作ったり、自分よりも美しい存在がいると聞けば、その娘を亡き者にするためにあの手この手で追いつめようとするなど、神話の中では、アフロディーテが抱える嫉妬心や残虐性といった影の部分がしっかりと表現されています。
(ご興味のある方は、ぜひギリシャ神話を読んでみてください。)
アフロディーテはその内側に、非常に明るい側面とダークな側面の両方を持っています。美や調和に対して完璧さや完全性を求めれば求めるほどに、そうではない部分が目につき、それらをジャッジしては悩み葛藤を抱えるという・・キャラクターとして、非常に複雑さを持っているのがこのアフロディーテです。そして、その女神を象徴とする天体がまさに金星である、ということになります。余談ですが、我々人間の美への執念や執着も、アプローチとしてはどこか似たところがあるように思いますよね。
あるものを定義しようとした時、真逆のものが必要になる
そもそも論になってしまうのですが、この世界で“美”を定義しようとした時には、そうでないものも同時に定義しなければならないという前提があります。つまり、美しいという概念を成り立たせるためには、その真逆にある美しくないもの=醜いもの、という概念が必要となります。これらは別々のものではなく、表裏一体の関係性であり、2つあって初めて成立する概念と言えます。
もちろんこのような概念は、この美醜だけではなく、例えば善と悪、正義と不義、光と闇、といったものもこれにあたり、これらは全て金星の持つテーマと関わります。
我々個性占星学の講座では、金星の持つこのような側面などもテーマとして扱っていきます。例え話を使って生徒さんに説明をすることがあるのですが、例えばウルトラマンは、いわゆる正義の味方の代表格です。一方で、ウルトラマンが正義の味方として存在するためには、破壊的な行為により人間の日常を脅かす怪獣の存在が不可欠です。
つまり、逆説的ですが平和を脅かす怪獣がいない世の中であれば、正義の味方ウルトラマンは、そもそも必要がないので存在し得ない、ということになります。
更に言えば、ウルトラマンが正義の味方であるという前提はあくまでも地球の住人から見た捉え方ですが、怪獣の側からすると、自分たちは自分たちなりの正義を持っていて、破壊行為を行っている可能性もあるわけです(主人公が逆転したアニメ映画などもまれに製作されますが、これらの映画は見事にその側面を表現しているな〜と感心します)。
そのように考えたときに、この二元性のテーマというのは簡単に結論づけができるものではないことや、この世の中から相も変わらず争いごとや戦争が消えない理由もまた、示唆しているように思えてなりません。
(余談ですが、つい最近まで、ウルトラマンが戦っているのはゴジラであるという説明をしていたプーですが、タニコさんに制されて、ウルトラマンとゴジラは別々の物語であることを認識した次第です。間違った説明を聞いてしまった皆さま、いい加減な話をしてすみませんでした。ゴジラファンの皆さま、無知をお許しください・・w)

自分の中の金星を育てていくことの大切さ
さて、この二元性をつきつめていくと、それではこの世界に絶対的なものは存在しないのか?という疑問が生じてきますが、個人的には存在すると思っています。それはつまり「誰にとっても価値のあるもの」と置き換えても良いかもしれません。
しかしながら一方で、今現在の世の中において「誰にとっても価値のあるもの」といったときに、その場にいる全員が、満場一致で価値を感じる、というような意見の一致というのはなかなか起きないかもしれません。
ここに、各々が持つ価値観という問題が出てきますが、一体この“わたしの価値観”というものを、我々人間はいつどこで身につけるのでしょうか。少なくとも、おぎゃーとこの世に生まれてきた時点では、価値観自体を持ってはいなさそうです。また、言葉を理解することができない赤ちゃんのうちも、きっと同様でしょう。
しかしながら、言葉を理解し周囲の大人たちと会話することができるようになると、親など身近な大人たちから「これはやって良いけどあれはやってはいけない。理由はこれこれで・・」と教えられることも増えてくるでしょう。また義務教育に入ると、今度は学校で、何が正しくて何が正しくないのか、何をやると社会的にNGと言われるのか、という判断軸のベースとなるものを教えられるようになります。
占星学の観点からいくと、実はここにも重大な落とし穴が存在します。
具体的に語ると長くなってしまうので今回は割愛しますが、そこに対して疑問を持たずに成長をしてしまうと、その人の価値観というものは、世間で良しとされる概念的に植え付けられた価値観になってしまう可能性が十分にあるのです。
またそれにより、そもそも魂が持っている熱量(モチベーション)を感じとることが難しくなり、自分が本当に何に興味があって何に喜びを感じる人間なのか、といったことを認識することすら難しくなってしまいます。
世の中の価値観は移り変わっていく
余談ですが、身近に人生の早い段階でこの学校教育からドロップアウトした人がいます。その人を見ていると、背景に持っているものが、世間一般で言われる常識や概念にはおよそ当てはまらず、独自の価値観を持っているなと感心することがよくあります。かといって誰かに迷惑をかけて生きているということもありません。良い意味で、周囲の大人たちの言葉を耳に入れずに育ったのだろうと思います。
もちろん今は一昔前とは違うので、この人のように、いわゆる普通の学校生活に馴染めずに、教育方針の合うフリースクールなどで学ぶ子供たちも増えているようです。
ちなみにまた別の知人の話ですが、不登校がきっかけで引きこもりがちになってしまった子供たちを対象に、オンラインの個別学習塾を提供している人がいます。授業の内容なども本当にバラエティーに富んでいるのですが、それもそのはず、そこでは、子供の興味関心を第一優先に、一人ひとりに独自のカリキュラムを組み授業を提供しているからです。
生徒さんの中には、一般の学校にいけなくなったことで心に傷を負っていたり、自信を失っているお子さんも少なくはないようです。しかしながら、個別授業の中で、自分が本当に興味があることを探求し、知ること・学ぶこと・触れることの楽しさを思い出すことにより、そのような傷を超えて、再び自分に自信を持てるようになる子供たちもたくさんいるそうです。
このようなお子さんたちはきっと、いわゆる一般的とされるレールから外れてしまうことへの怖さ、周囲に理解されない感覚や葛藤といったものを抱えながらも、そのような経験から独自の価値観を見出し、自分自身の価値観をさらにブラシュアップさせながら大人へと成長していくのかもしれません。
もし仮に、彼らがそのような成長を遂げた暁には、自分と異なる価値観に出会った時にはそれを受け入れ、自分にとって大事な価値観があるように、目の前の他者にとっても同じく大事な価値観があることを前提に、世界と関わっていくのかもしれません。自分の正しさだけを主張するのではなく、相手の言い分も聞いた上で、両者にとってベストな結論を、対話によって模索しようとするかもしれません。理想論かもしれませんが、ここにこそ、金星の学びがあるのではと強く思っています。

“絶対的な価値”にたどり着くという人類の持つ可能性
「絶対的な価値」の話に戻りますが、我々人間は、このようなプロセスをまだ十分に経験していないのかもしれません。互いの正義をつつきあい、自分の正当性を主張することはあれど、相手の正義もまた真なり、という前提で交渉の席に立つというような解決の仕方は、国際社会で起きている争いの場はもとより、そもそも一つの家庭の身近な家族とですらなかなかに難しいものでもあるからです。
しかしながら老若男女問わず、一人ひとりが自分にとっての金星を見直して「私にとって絶対的に価値あるものは何か」「この世界にとって絶対的に価値のあるものは何か」という問いを探求していった先に、我々人間がその答えを見つける日は必ずくるのではとも思います。いや、そう信じたいです!笑 もう、戦争や争いばかりの世界を見続けること・体験することに、我々の魂は飽き飽きしていると思うからです。
さて、今日はギリシャ神話のアフロディーテの話から、金星の一側面である美の話や二元性の話にまで及びましたが、この金星のテーマと関わり深い海王星についても、いつか話題にしたいなと思っています。長くなりすぎるので今回はこのあたりで。
また、次回ブログでお会いしましょう^^